モノノミカタ ~CNCを使った木工作品についての説明書きなど

自然と人をつなぐモノづくり。創作する上で知ったこと、考えたこと。

暦と時刻制度/CNCを使った木工小物製作

『ト音記号の置時計』を昨日、追加で製作しました。今回はト音記号が“大きい”ので、色が茶系のウォルナットを使い、下地と調和させることにしました。

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時計の製作が続いています。もっともムーブメントは既製品なので、時計の“ガワ作り”といった方が正確ですね。

時計の文化・歴史を調べてみると、天文学、暦が土台となっていることがわかります。時間を計るということは1年・1月・1日をどのような単位で分けるかが、問題となります。西洋では太陽の周りを地球が回る1年を基本単位とした太陽暦、日本では月の満ち欠けを基本としながらも、太陽暦とも整合を図った太陰太陽暦を、明治5年まで使用していました。

 

〇改暦弁

改暦は西洋の文化を取り入れるため必要だったのですが、実は明治6年は旧暦では閏年に当たり、月給を1か月多く13か月分支払う必要があり、財政逼迫に苦しんでいた新明治政府が、改暦をして正月を1か月早くするという多くの市民にとっては初耳の非常手段を、何の前触れもなく採用したという、裏話がありました。(引用:暦の変遷 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム

この時の世間の混乱を見て、福沢諭吉が『改暦弁』という文書を書きました。庶民にもわかりやすく平易ではありますが、太陽暦が優れている根拠を明確に説明していて、現代の我々が読んでも感心させられるものです。短い文書なので是非読んでください。

青空文庫・福沢諭吉著『改暦弁』

http://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=46668

後半には時計の読み方まで丁寧に説明されています。日本人にとっては「時間」という基本的な生活要素が大きく転換する瞬間だったんですね。

 

〇江戸時代の時刻制度

太陰太陽暦のもとで江戸期の人々はどのように時刻を知り、生活に反映させていたのでしょうか。

一日を24時間で割る『定時法』に対し、江戸期に行われた一日を昼と夜で分けてそれぞれを6等分するやり方を『不定時法』と呼びます。季節により昼と夜の長さは変わりますので大変です。

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出典:不定時法の説明 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム

一日を干支の十二支で分けますが、昼は卯~酉、夜は酉~卯まで6つずつで固定されています。太陽暦の時間との対応を作成してみました。

23~1時 1~3時 3~5時 5~7時 7~9時 9~11時 11~13時 13~15時 15~17時 17~19時 19~21時 21~23時
      明け六つ           暮れ六つ    

一日を十二支で分けるので2時間ずつになります。例えば、子の刻とは前日の23時から当日の1時までを指します。今も昼の12時を「正午(しょうご)」と呼びますよね。

下の漢数字は平安時代の延喜式から続く時刻の呼び方だそうです。明け方30分前を「明け六つ」と呼んだそうです。複雑ですねー。

(参考:明六つは日の出の時刻ではありません! : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録

“3時のおやつ”の「おやつ」は昼過ぎの「八つ」からきているそうです。

 

江戸期は「鐘」で時刻を皆で知らせていたそうです。「城の鐘」は決まった時刻に太鼓や鐘で城に従事する役人に政務時間を知らせていました。また「寺の鐘(梵鐘)」は、仏事や勤行のために寺院で鳴らしていた鐘で、最初一日に3回鐘を撞いていました。(明け六つ・昼九つ(正午)・暮れ六つ)。
江戸では江戸城を囲む9ヶ所のお寺や町中、地方では京都・大坂・長崎などの主な城下町にあって、最初は幕府管轄の時報制度を取っていましたが、間もなく市民のための鐘となり、一刻に一回の報知がされていたそうです。

(引用:江戸時代の暮らしと時間 | THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム

 

太陰暦は月が基本となるので、潮の満ち引きが関連する海で生活する人たちにとっては良い暦だったのですが、細部まで整合性・合理性を求めるのが西洋文明なので、太陽暦への統一は時代の流れなのでしょう。

 

(おわり)

 

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